《2026|Web制作の現在地 Vol.7》宇都宮勝晃(Shhh inc.)が考える、「平均解」から離れるためのデザイン

変化のスピードが速まるなか、Web制作・開発の現場は、いまどこに立っているのでしょうか。2025年を振り返りながら、2026年をどう見据えるのか。現場で向き合う人たちの言葉を手がかりに、現在地を探っていきます。第7回は、Shhh inc.デザイナーの宇都宮勝晃さんにお話を伺いました。
プロフィール

宇都宮 勝晃
Shhh inc.
仏師への師事後、ウェブプロダクションなどでディレクション業務に従事。 37歳にフリーランスとして独立後、38歳から独学でデザインを学び、40歳でデザイナーへ転向。2019年にShhh inc.を共同創業し、現在に至る。 日本タイポグラフィ年鑑ベストワーク賞、Awwwards等世界的なWebデザインアワードでも多数受賞。CREATIVE CLASSや、Coloso.での講師活動を通じ、次の世代を担うデザイナーの育成にも力を注いでいる。
https://shhh.jp
2025年、制作の前提はどう変わったのか?
大きく分けて、気になった変化が2つありました。どちらもAIが密接に関わっている点が、興味深いところだと思っています。
まずひとつ目は、「言語化」のトレンドです。ここには、2つの意味があります。
ひとつは、AIを扱うスキルとして求められる言語化です。言語への解像度が、アウトプットの品質を左右する。いわば、AIへのディレクションのための言語化スキルという側面です。
そしてもうひとつが、「意思」を示すための言語化という流れです。
デザインが資産としての投資へとシフトしていくなかで、デザインがもたらす成果への説明責任が求められる場面は、以前より増えてきました。ただ、ここで言っている事は、その意味での言語化とは少し異なります。生成AIによる「平均解」のアウトプットがより流通するなかで、あえて「意思を示すための言語化」が求められる流れが、着実に進みはじめているのではないか、という点です。
そのブランドにとって、「なぜこのアウトプットが最適と言えるのか?」「一方で、なぜこのアウトプットでは良くないと言えるのか?」。
生成AIは、特殊な状況下における文脈への意思や判断までは持ち合わせていません。
審美眼を持つデザイナーが、その選択に「理由」を与えることで、「納得」と「意味」、そして「愛着」が生まれていく。そうした役割が、いままさに求められ始めている実感があります。
そして、2025年を振り返ってもうひとつ感じた変化が、「均質化」の流れです。
デザインに限らずあらゆる表現において、アルゴリズムとAIの回答に依存した、一定の型に沿った「平均解」のアウトプットを目にする機会は急増していますし、その進化が進むほど、世界はより均質化へと向かっていく。これは避けられない世界規模の流れだと思いますし、その傾向は2026年、さらに加速していくのではないかとも感じています。
制作の現場で浮かび上がった課題感
前述の2つの変化を踏まえると、これから特に課題意識を持って取り組むべきなのは、「個人性・属人性」「人間性・関係性」「個別性・特殊性」「言語化できないもの」といったキーワードに含まれる領域ではないかと考えています。たとえばここでは、「個人性・属人性」というキーワードについて考えてみたいと思います。
先ほども触れた通り、生成AIによる制作物があふれていくなかで課題になるのは、「均質化」です。そうなると必然的に、「信頼に足る人の評価や判断のほうが、むしろ知りたい」という流れが生まれてくるのではないでしょうか。
「あれではなく、これが良い」と、デザイナーが責任を持って「意思」を示す。そこに宿る信頼感こそが、人と人とがものをつくることの根源的な意味なのではないかとも思うのです。
一方で、その信頼感や納得感を求めない領域であれば、むしろ積極的にAIを用いコストを下げて制作していけばよい。そんな判断も、より進んでいくのではないでしょうか。
言い換えると、「デザイナーに依頼してつくってもらう」という行為自体が、より特別で、ある種ぜいたくなものになっていくのではないか。この二極化が進むことで、ものをつくることの本質が、逆によりあらわになっていくのではないか。そんな印象と、同時に危機感も持っています。
そして、こうした課題意識から、いまの自分は「その人なりの視点にこそ価値は宿る」という仮説を持っています。昨年、デザイナー向けのオンラインスクール(CREATIVE CLASS supported by iDID)で講師を担当していたのですが、そこでもっとも意識的に伝えていたことのひとつも、この点でした。
AIに頼ることで陥りやすい均質化や、インフルエンサーなどが提示する「こうあるべき像」への依存。そこから離れ、これから先は「誰が、どんな考えでつくったのか?」という固有性こそが、より重要な価値基準になっていく。「平均解」はよりAIに委ねられ、属人性や異常値こそが価値を生んでいく。そう考えているためです。
だからこそ、「自分はどう思うか?」「自分はどう感じるか?」を大切にする内省と意思と行動とが、これまで以上に求められるようになってくるのではないか。そんなふうに考えています。
2025年を通して、あらためて重要に思ったこと
さらに例として、「人間性・関係性」というキーワードについても考えてみたいと思います。
マーケティングの視点で言えば、ユーザーインタビューを重ね、行動を観察し、プロトタイプで検証するというデザインプロセスは、いまや必須のものです。
また、「共創」というキーワードで言えば、立場が異なるメンバーでワークショップを行い、発散し合うことで、新たな視点を得ていくプロセスもあるでしょう。これらはいずれも正しく、異論が出にくいあり方だと思います。
ただ、本当にそうなのだろうか、と最近思うようになってきました。むしろ、いまの時代においては、そうした行為こそが予定調和を生み、「平均解」へと向かうアプローチになってはいないだろうか、と。
そして逆に、いまこそ「そこにある、1対1の関係性」–––––たとえば、デザイナーとトップとの濃密な関係性のなかにこそ、平均解から逃れ、突出した唯一性を持つ「特殊解」が存在するのではないか、と考えるようになってきたのです。
たとえば、そのトップの方の原体験や行動動機、価値観や信念、美意識や倫理観、話し方や振る舞い方、人との距離感、着ている服装、そして言葉では表現しきれない葛藤……。そうしたものすべてを通じて立ち上がってくる、「トップが願う、ありたいブランドの姿」。そこまで含めて、いかに感じ取り、視覚や体験へと変換できるか。
そうした「偏り」や「意思」、あるいは「欲望」や「批評性」のようなものをこそ、積極的に歓迎し、見つめていくこと。それらこそが、アルゴリズムやAIに依存しない唯一性を獲得するトリガーになるのではないか。そんなふうに考えはじめています。
2026年を迎えて、意識したい仕事のあり方
ひとつ目は、「プロジェクトをより個別化・局所化する」ということです。平均解とは距離を置き、目の前の「この人」という個別性や局所性。そこにこそ、デザイナーが介在する価値は、より高まっていくのではないかと考えています。「マーケティング的に考えれば、こういった打ち手やアウトプットが適正」という思考ではなく、「目の前のこの人のビジョンを体現するには、このアウトプットしかない」という洞察と確信。そこにこそ、模倣し得ない何かが宿るのだと思います。
一見すると突飛に聞こえるかもしれませんが、個人的には、その延長線上として「ホームページ回帰現象」が起き始めていると感じています。情報の取得だけであれば、SNSとAIで十分に補える時代です。だからこそブランドにとっては、より美意識や哲学、ビジョンを高密度に体現した「直営店」のようなもの、つまり「ホームページ」のような存在が、世界にひとつしかない特別なものになっていくのではないか、と。実際に、そのような個別相談が増えはじめている、という実感もあります。
ふたつ目は、「個人でつくる。勝手につくる」ということです。
前述の通り、従来のクライアントワーク型の「依頼され、つくる」という行為は、より特別で、ある種ぜいたくなものへと変わっていくのではないかと想像しています。一方で、AIによる「つくることそのものの民主化」という流れもあります。この両者を踏まえると、「個人でつくる。勝手につくる」という行為が、これからのデザイナーにとって、ひとつの道になっていくのではないかと感じはじめています。その人にしかない偏りや欲望、愛情、美的基準、批評性、そして「つくる理由」。それらこそが平均解から離れた差異を生み、価値の源泉になる。
そして、そうした人がつくるものに価値が見出され、仕事が生まれていく。そんなサイクルが、これからさらに増えていくのではないか、と考えています。言い換えれば、つくり手には「意思」がより強く求められ、同時に「偏り」こそが武器になる。そう捉えることもできるのではないでしょうか。
いま制作に向き合う人たちへ
まとめのようになりますが、いま大切にしたいのは、「自分にしかない異常値」と向き合い、それを信じることだと思っています。これは言い換えると、「人生のテーマを持つ」ということなのかもしれません。「属人性」がより問われる、というのは、「どう生きるか」「どう生きたいか」がより問われる、ということとほぼ同義だからです。
たとえば自分自身で言えば、「日本美を深く理解し、かたちにする」というテーマがあり、ここに向けて、これから十年単位で深めていくつもりでいます。そうした、自身の偏愛と向き合ったテーマを見つける行為も、ひとつの糸口になるのではないでしょうか。
もうひとつは、いくら時代が変わっても、「目と手を鍛える」ことの重要性は変わらない、ということです。デザインは、とても身体的な営みです。そのカーブの滑らかさ、そのカーニングの収まりの良さ、その余白の美しさ……。こうした感覚は、身体の反復によってでなければ鍛えられません。ただ「良い」とされるものを見ているだけでは、身体を通した審美眼は身につかない。観察眼と審美眼は、似て非なるものだと思います。
考えられる限りのパターンをつくり、よりふさわしいもの、より美しいものをその場で選び取り、そこからまたつくり、そしてまた選び取っていく……。その反復のなかで自分が責任を負い、水準を引き上げていくことで、「身体のなかへ真に浸透したデザイン感覚」が養われていくのだと思います。
そこに、スマートな近道はありません。あるのは、ただ長い道のりだけです。ピアニストが毎日鍵盤に触れるように、サッカー選手が毎日ボールを蹴るように、彫刻家が毎日ノミを振るうように。
AIが生成するアウトプットを見極め、人が手を加えて完成度を高めていく。そうした、AIと協業する制作フローが、今後は主流となります。それでも、その過程において変わらず、「目と手」は必ず必要になるものです。
だからこそ、この一見遠回りに見えるスキルこそが、結果としていちばん遠くへ行くためのスキルになる。自分は、そう考えています。変化に迷いながらも、目と手を大切にし、鍛え続けるデザイナーは、自分にとっての同志です。
一緒に、つくっていきましょう。
文:宇都宮勝晃(Shhh inc.)





