《特別対談:中村勇吾×清水幹太 Vol.1》「過去にしがみついて偉そうにしているのって、いちばんダサいですよ(笑)」改めて振り返る2000年代のWeb業界と、“ラーメンブーム”との共通点

Web Designingが創刊して24年。その間、絶えることなくWebの可能性と楽しさを提示し続けてきた中村勇吾さん。中村さんはあの頃、何を考えていたのか、そしてこれから何をつくろうとしているのか。今回は「中村勇吾」というシンボリックな存在を通じて、Webクリエイティブの「これまで」と「これから」を考えてみることにしました。水先案内人は中村さんに憧れ、同じ“技術屋”として素晴らしい作品をつくり続けてきた清水幹太さんに依頼。全Webクリエイター注目の対談、いよいよスタートです!

目次

なぜ中村勇吾さんがゲームをつくったのか、という話

清水幹太(以下、清水)  今回は久しぶりに中村勇吾さんとじっくりお話する機会をつくっていただいたいうことで非常に楽しみにしていたのですが、実は、昨日ふと、「HUMANITY」をまだ体験していないことを思い出しまして。「これはいかん」と、慌てて入手してプレイしてみました。

中村勇吾(以下、中村)  それはそれは。どうもありがとう。

清水  「中村勇吾」という存在に憧れて続けている身としては、発売してすぐにプレイしなければいけなかったのですが、最近、年齢のせいか頭がマルチスレッドに対応しにくくなっていまして、集中できる時間を探していたら時間が経ってしまいました。すみません。

中村  大丈夫です(笑)。

清水  実際にプレイしてまず気になったのは、デモ画面にもあるような、人がワーッと出てくることによる集団行動のカタルシスを追求したゲームなのだろうと思っていたら、むしろパズル的要素が強かったことなんです。

中村  メインのイメージは、いま幹太さんが紹介してくれたような、「どや!」とばかりに大量の群衆が出てきて、圧倒的な物量で魅せる、みたいなところにあるのだけれど、実際そういう場面が出てくるのは中盤以降なんですよ。

Webだったら冒頭の「つかみ」部分にクライマックスをもってくるんだろうけれど、ゲームの場合は長く遊んでもらうことになるから、まずは遊び方に慣れてもらうところから始まって、だんだんと人が増えて盛り上がっていく構成になっているんです。

清水  時間的な設計もしているわけですね。

中村  その点はすごく意識しました、というか、プロジェクトに途中から参画してくださった、ゲームクリエイターの水口哲也さんのチームに指導していただいた。thaのスタッフはWebや短編映像を多くやっているからか、面白いものができたとしても、最初のインパクトだけで満足してしまうところがある。すると水口さんチームから「ゲームはそれだけでは足りない!」という指摘が入るわけです(笑)。

清水  いまの勇吾さんのお話だと、もしかして、HUMANITYってthaの中で実装までやっているということですか?

中村  外部の方々に手伝ってもらってはいるけれど、コアな部分のプログラミングやアートディレクション、デザインについては全部自分たちでやりました。ざっくりとした“クリエイティブディレクション”じゃなくて、全体からディテールまでガチで制作しました。

清水  そうなんですね。言われてみると、ゲーム中の文字の出方なんかがすごくthaっぽいというか、中村勇吾っぽいというか。

中村  実装してるからね(笑)。

清水  すると勇吾さんは、HUMANITYを制作している間、ずーっとゲームの世界にいたということですか? 2年とか3年とか……。

中村  それが6年なんですよ。小学生が入学から卒業までずっとゲームをつくってたみたいなものだから長いでしょ(笑)。実は、ゲームの原形となるアートディレクション的な部分や、仕組みの構築は1年ほどで形になっていたんです。

ただそこからが長かった。ゲームとして面白い状態にまで完成させるために行きつ戻りつして、最後には「これ以上時間をかけたら頓挫する!」となって、なんとか形にして。それで6年。

清水  他にもいろいろな仕事を手掛けているでしょうし、そんな環境で6年とは…。

中村  確かに長かったですよ。でも「この作品はきっといいものになる」という手応えはあったし、たとえ時間がかかっても、自分たちで最後まで実装するところに価値がある、と思っていたから。

清水  そこまでして取り組むモチベーションはどういうところにあったのですか?

中村  それはもう単純に、プレイステーションなどのコンシューマーゲーム機の上で自分たちがつくったコードが実行されること自体が嬉しい、っていうところだよね。

中村勇吾。インターフェースデザイナー/映像ディレクター。1970年奈良県生まれ。東京大学大学院工学系研究科修了。多摩美術大学教授。1998年よりWebデザイン、インターフェースデザインの分野に携わる。2004年にデザインスタジオ「tha ltd.」を設立。以後、数多くのWebサイトや映像のアートディレクション/デザイン/プログラミングの分野で横断/縦断的に活動を続けている。

Webだって結局は、自分がつくったコードがインターネットを通じて、たくさんの人の画面に現れるのが嬉しいわけで。ガツガツしている方じゃないけれど、「自分たちのコードを、あらゆるメディアで動かしてみたい」といった欲望はすごく強いんです。Webはやったから次はCMだ、次はテレビ番組だ、みたいに。

清水  私も実装をするから、その感覚はよくわかります。

中村  コンシューマーゲームに実装できるチャンスが目の前に転がっていたから、迷わず飛びついたというわけです。

清水  それでいうとこの10年ほど、勇吾さんは日本のグラフィックデザインコミュニティとも積極的にお付き合いをしてきましたよね。

中村  それも自分の中では「いろんなメディアに展開したい」欲の一環で、あの人とも、この人とも仕事をしてみたいという願望があるから。それこそ深澤直人さんや佐藤可士和さんと仕事ができたことは、すごく嬉しい経験だった。ただ、いちばん楽しいのは、そういう人たちとはじめて会った帰り道に、スタッフと感想戦をすること。「すごいデザイナーは全員いい人だ」とか確認しあって(笑)。

個人の枠を超えて、「文化」になった中村勇吾という存在

清水  さて、そろそろ本題に入らせていただいてもいいでしょうか。

中村  ここまでの話は本題ではなかったのか…(笑)。

清水  いや、そういうわけではないのですが、今日、勇吾さんにどうしても聞きたいと思っていた話に入ろうと思いまして。その1つが「あの中村勇吾作品の数々をいまはもう見られない」という問題についてなんです。

先ほども少しお話しましたが、私がこの世界に入ろうと思ったのは、2000年代の初頭、本日この場を用意してくださった『Web Designing』を読んで、勇吾さんをはじめとする当時のクリエイターから大きな影響を受けたからなんです。

私と同世代のクリエイターには、勇吾さんの「ecotonoha」のような作品に触れたことで、この仕事を始めたという人がたくさんいます。その影響の大きさは中村勇吾個人の枠を超えて「文化」になったと思っていて。

清水幹太。バーテンダー/トロンボーン吹き/DTPオペレーター/デザイナーなどを経て、独学でプログラムを学んでプログラマーに。2005年12月より株式会社イメージソース/ノングリッドに参加し、本格的にインタラクティブ制作に転身、クリエイティブディレクター /テクニカルディレクターとしてWebサービス、システム構築から体験展示までさまざまなフィールドに渡るコンテンツ企画・制作に関わる。2011年4月より株式会社PARTYチーフ・テクノロジー・オフィサーに就任。2013年9月、PARTY NYを設立。2018年、テクニカルディレクター・コレクティブ「BASSDRUM」を設立

中村  いや、そんなに大袈裟なことではなくて、あくまで当時のWebカルチャーの一員としてがんばっていただけです。ただ、幹太さんからそんなふうに言ってもらえるのはすごく嬉しいですよ。

清水  当時、勇吾さんの作品は本当に衝撃的でした。グラフィックがあって、映像や音があって、そこにプログラミングでつくられたインタラクションが加わっていて。

中村  いわゆる「マルチメディア」的な嬉しさだよね。この言葉は当時ですら、もう古かったと思うけれど。

清水  そうした中村勇吾作品をいま、私たちは振り返ることができないし、ましてや若い世代のクリエイターは、それを体験することすらできない。勇吾さんはそれについてどう感じていますか?

中村  それはやっぱり残念だとは思う。思うんだけれどその一方で、いわゆるクリエイティブの世界を見渡した時に、作品そのものがアーカイブされるのは本と映像と音楽だけの特権だろうと思っていて。

当時のWebサイトの「体験そのもの」を長期間保存しておくことは、実はかなり難しい。演劇だって、映像で記録は残せても、それを本当の意味でのアーカイブと言えるかというとそうではないだろうし。

清水  私はジャズを演奏する人間なので、その感覚はよくわかります。音楽もその場で聴いてなんぼみたいなところがあります。

中村  それに、あの頃がどんな時代で、それらの作品がどんなふうに評価されていたのか、というところも冷静に振り返る必要があるんじゃないか、とも思うんです。

確かに当時、いろんな人たちが「Webは面白い、すごい」って言ってくれていたのは確かなんだけれど、その一方で当時のWebの世界には、自分も含めて、真に価値あるデザインができる人がいたのかというと、別にそうでもなかった。

「すごい」というより「すごいふうを装っていた」というのが正しいのではないかと。もちろんいいものもあったけれど、偽物感もすごかったから。

清水  私が仕事を始めた2000年代半ばも、まだまだそういう時代だったかもしれません。

Web業界は“歴史が積み重なりにくい”からこそ面白い

中村  そうした2000年代初頭のWebをめぐる空気感を知る上で、ぜひ読んでみてほしい漫画があるの。それが『らーめん再遊記』。

清水  えっ! どんな漫画ですか?

中村  ラーメン業界とフードビジネスをテーマにした話なんだけれど、そこに描かれている1990年代に始まるラーメンブームの描写が実に的確でね。当時のラーメン業界は驚くほどに盛り上がっていたから、「ここで名を売ってやるんだ俺は」みたいな、野望を持った人がわらわらと集まっていて、フレンチの修行をした人とか、和食の鉄人みたいな人がいる一方で、何者なのかよくわからない人がたくさんいた。

清水  その「シーン」の盛り上がり方が、勇吾さんの時代のWeb業界と似ている、と。

中村  そうそう。怪しい感じもするんだけれど、とにかく勢いがあるから世間から注目されて、企業もその勢いを利用して宣伝広告に使ってみよう、みたいなことになって。いまの若い世代の人たちにもわかるように言うと……そう、ちょっと前に、YouTuberとかTikTokでバズっている人を企業が使う、みたいな状況があったでしょ? それと似ているんじゃないかなと。

清水  人気Webクリエイターと、流行りの動画クリエイター……。確かに言われてみると、同じような役割を担っていたかもしれません。じゃあ、そんな中で勇吾さんはどんなことを考えて作品をつくっていたんですか?

中村  当時、常に頭の中にあったのは他のジャンルの、例えばグラフィックデザインや映像の世界でものすごいクリエイティブを生み出す人たちの目から見ても、「こいつらのやっていることはなかなか面白いじゃないか」と思ってもらえるようにしなきゃいけない、ということ。言ってみれば、“偽物の成り上がり根性”ですよ。

清水  「ecotonoha」は、そういう時代に生まれたものだと。

中村  だから幹太さんに「残すべきだ」と言ってもらえるのは嬉しい一方で、いまの人が自分のことなんて知らなくても当然だとも思う。Webってそもそも歴史が積み重なりにくい世界なんですが、一方でそこがWebの面白いところでもあると思うんですよね。

2000年代初頭のFlashカルチャーの時代だって、すでに先達としてジョン・マエダさん がいたし、メガデモ の文化もあったけれど当時、そこに言及する人はほとんどいなかった。時が経って忘れ去られたり、10年前の車輪の再発明をし続けるのは、この世界の常なんですよ。

だからおっさんが、そういう忘れ去られた過去にしがみついて偉そうにしているのっていちばんダサいんじゃないかと(笑)。

清水  うーむ、確かに……。

中村  だけど、当時のものづくりの価値までなくなったのかというとそうじゃないと思う。いまでもブラウザの仕組みを利用して、誰もやらないようなことやっているヤバい人を見つけたりすると「おおっ」って思うし、そういう試みが何かを生み出すだろうと思うし。

清水  ちなみに、その後のラーメン業界はどうなっていくんですか? ちょっと気になっちゃって。

中村  一時の盛り上がりが落ち着くと、「家系ラーメン」とか、完成された「東京醤油ラーメン」とか、いくつかの大きな流れに集約されていったということらしいです。

要するに、いろんな人が試行錯誤をしていた時代から、次第に淘汰選別がなされて、成功パターンのフォーマット化が進んでいった、ということなんでしょうね。そのまま生き残った、ごく一部の例外を除いては。

後編はこちら(※2025年5月9日公開予定)

Text : 小泉森弥 Photo : ただ(ゆかい)
※本記事は『Web Designing 2024年8月号』に掲載されている記事を、一部編集・再構成した上で転載しています。

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